マレー H. ホール(1840-1901年)
ニューヨークはユニークな人生に溢れた街。このコーナーではその中でも奇想天外で味のある、素敵な人生を紹介したい。
マンハッタンのウエスト・ビレッジの一角に建つ、425 6アベニューのアパート。一見変哲もないこのアパートにはニューヨークLGBTQの歴史上、最も興味深い人物の一人が住んでいた。数奇な運命を辿った人物だが、日本ではあまり知られていないと思うので、ここに紹介したい。
1890年代、汚職の蔓延るニューヨークの政界に活発似出入りする一人の男がいた。彼の名前はマレー H. ホール(1840-1901年)。政治犯の保釈保証人として25年を超えるキャリアを持ち、民主党のパワープレイヤーだったホールを、政界で知らないものはいなかった。
バーやサロンに頻繁に出没し、他のパトロンとポーカーやビリヤードを嗜んだ後、カウンターで葉巻を燻らせる。そして酒を飲みながらウエイトレス達にセクシャルなジョークと眼差しを送ることで知られていた。
しかし、1901年に62歳でホールが亡くなった際、世間は仰天。ニューヨーク・タイムズ紙は、ホールの「本当の性別が女性だった」とを報じたのである。
1840年、ホールはスコットランドでメアリー・アンダーソンとして生まれた。16歳にはジョン・アンダーソンという名前で男装を始め、若くして結婚する。だが嫉妬に駆られた妻がアンダーソンの性別を警察に密告してしまう。
逮捕を恐れたアンダーソンは、1870年に命からがらスコットランドを脱出し、アメリカに入国。マレーH.ホールという新しい名前でなんと男性として第2の人生を歩み始めたのである。
1872年、ホールは教師のセシリア・ロウと結婚。(二人は後に女の子を養子に迎える)ホールの最後の家とオフィスが、この457 Sixth Avenueにある3階のアパートなのだ。
彼女の死後、「今から振り返ってみると..」という声がビレッジでポツポツと聞かれた。政敵の共和党のメンバーたちはここぞとばかりにホールを笑い物にしたのである。
だが亡くなるまで、ホールは「この街の顔」だった。善良で誰からも好かれる人間だった。善きもののために最後まで戦った勇敢な人間だった。
皮肉にもホールの死因は乳がんだった。医者が観た時にはすでに乳房から潰瘍が滲み出していたと言われる。医者がホールを見た数日後に、彼女は亡くなった。ホールのケースは後に性別不適合者の初期の例として、英国の性的心理学者ハヴロック・エリスを含む世界中の注目を集めることになる。
それにしてもなんという大胆な人生だろう。今から120年前の事件だから相当世間をたまげさせたことと思う。
「生」か「性」のどちらを選ぶか。ホールは自分が何者か理解していたのだ。自分の人生を歩むために、誰の理解も必要としない。自分のあり方を貫いた、正直で勇敢な生き様である。
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