ニューヨーク近代美術館(MOMA)の5階には「ザ・コレクション」と題された常設展示がある。展示品の一つがこの作品だ。タイトルは「ブロンクスの奴隷市場(Bronx Slave Market)」。1935年に女性ジャーナリストのエラ・ベイカーとマーベル・クックによって書かれ、雑誌「The Crisis(危機)」に発表された同名の記事が、世間を騒然とさせる。その記事に続き、フォーチュン誌に依頼され、フォトグラファーのロバート・H・マクニールがブロンクスに赴いて撮影した写真がこの作品に使われている。
私が現在住んでいるブロンクスには、黒人女性にまつわる悲しい過去がある。この記事が発表された1935年に、アメリカは世界大恐慌の真っ只中にあった。そして不況のどん底で、仕事を見つけるのに最も苦労したのが、貧困層の黒人女性達だった。
アメリカでは1865年に奴隷制は撤廃されている。「ブロンクスの奴隷市場」という記事タイトルは当時の黒人達の置かれた過酷な環境を強力に皮肉ってつけられたものだ。
これまで家事手伝いや掃除婦として仕事を持っていた黒人女性達も、職業を失った白人女性達や移民達が流入して来たことで次々と仕事を失ってしまう。彼女たちは仕事用の着替えを紙袋へ入れ、ブロンクスの170ストリートにあったウールワース・デパートに向かった。それが何故ウールワース・デパートの前だったのか、経緯はわからない。だが当時沢山の女性が、日雇い家事の仕事を求め、ウインドウ前に立ち並んだのである。このような場所がブロンクスの中に数カ所あったと言われている。
そこにマンハッタンやロングアイランドから来た白人の「奥様」達が、彼女達を物色にくる。離れたところから年齢、体型を見定めたあと、近づいて賃金の交渉をする。
若く体格が良ければ、声もかかりやすかっただろう。辛い思いをしたのは高齢の女性達だった。若い順から、一人一人立ち去っていくが、自分には声がかからない。仮に仕事を得ても、膝をついての床磨きや、家中の窓掃除、重いカーテンの洗濯など、老いた体には過酷なものばかりだった。それでも生きていくために、強烈な日照りの日も、雪の降る日も彼女達はデパート前に立ち続け、仕事を待った。
当時彼女達の支払われた時給は平均20セント、現在(2022年)レートに換算すると4ドル10セント。1、2時間で切り上げられてしまう仕事も多く、これではどれだけ仕事をしても生活していくのは不可能だ。仕事を終えても、約束の賃金が丸ごともらえるとは限らない。いろいろ難癖をつけ値切る「奥様」も多く、主人に性的な嫌がらせをされることもあった。
当時既に労働賃金に関する法律は存在したが、このような日雇い労働者の賃金に対する保護法は存在しなかったことが、事態を更に悪化させていた。
地下鉄の4番線でブロンクスを北上し、167ストリート駅で下車。かつてウールワース・デパートがあったエリアを歩いた。付近には車修理の看板や、荒れ果てた空き地が目立ち、現在でも治安が良いとは言えない。ニューヨークで生活していて、貧困を感じることはかなり少なくなったと言える。だが、このエリアにはまだその匂いがある。
このベイカーとクックによるこの告発記事により、当時のニューヨーク市長ラガーディアは調査を開始。後に無料の職業安定所をブロンクスに数カ所開き、事態の改善を図った。
ジェローム・ストリートと167ストリートの交差点に立って、当時の女性達が経験した屈辱と絶望について考える。ニューヨーカーが人種について語るとき、私達は口を出せない。そこには日本で生まれ育った私には理解できない苦さがある。問題が複雑なのはこういった歴史のもと、人々が経験した痛みが、語られることのないまま、まだ人々の中に深く残っているからなのだろう。