『ニューヨークの象徴』メトロポリタン美術館。300万点を誇る所蔵品の中からLGBTQに関わりのある作品とエピソードを紹介するこのコーナー。
近代アーティストの作品を扱ったニューヨーク近代美術館 (MOMA)と比べ、メトロポリタン美術館の所蔵品の製作された期間は実に5000年に渡る。同性愛にオープンだった古代ギリシャから、見つかれば極刑の時代の作品まで、LGBTQの全ての歴史が展示されている。だが誰かに作品に込められた意味を教えられなければ、見落としてしまう程さりげない。
今回ご紹介するのは二階のヨーロッパ絵画のギャラリーにある「馬の市」という作品。柵の中を巡る馬の群れの躍動感を描いたこの絵画、幅5メートル、高さ2.4メートルという壮大なスケールだ。
画家はフランスで最も優れた写実主義アーティストの一人として知られているローザ・ボヌール。そう、女性なのである。
ローザは1822年、フランスのボルドーに生まれた。画家だった父親に幼い頃から師事し、動物のデッサンをこよなく愛したという。だが子供時代は何回も退学処分になる程、勝気なお転婆少女だった。
「私は他の男の子達以上に男の子らしかった」と本人が言い残しているように、ローザは男を見下した発言や態度でも人々の記憶に残った。髪を短く切った彼女は、葉巻を吸い、狩りなどを好んだという。
ローザはサロン(サロン・ド・パリ。フランスの王立アートアカデミーが18世紀に開催した公式展覧会)での数回の展示で人々の注目を得た後、1853年にこの壮大な「馬の市」という作品で国際的な名声を得た。
この「馬の市」の製作中、ローザはデッサンのため、男性の服装、つまりズボンを履いた「男装」で馬の市へ足を運んだという有名なエピソードがある。馬の市はいつも泥水、殺された動物の血や排泄物で汚れている。その中をスカートを履いてスケッチするのは不可能である。人目にも浮いてしまう。ズボンを履かせてくれ、という申し立てである。
フランスでは当時すでに同性愛は犯罪ではなくなっていたが、女性が男性の服を着る、「男装(異性装)」は未だ犯罪と見なされていた。女性が人前でズボンを履くことは法で禁じられていたのである。そのためローザは、6ヶ月ごとに警察当局に出向き、異性装の許可を申請する必要があった。だがこの許可書のお陰で、ローザは堂々と男装ができた。
1865年、女性画家の存在そのものが珍しかった頃に、ローザは女性として初めて芸術の最高勲章、レジオンドヌール勲章を受賞。また1894年には、女性として初めてレジオンドヌール勲章のオフィシエに昇進している。後に続く女流画家達に道を切り開いたパイオニアがまさしくローザだった。
作品のスケールだけではなく、ローザのパーソナリティーも相当大きい。自分がレズビアンであることを幼い時から自覚していたローザは14歳の時に当時12歳のナタリー・ミカと出会う。ナタリーもその後画家となった。
ナタリー・ミカ(左)とローザ・ボヌール
1859年、二人はパリの郊外、フォンテーヌブローの近くに城を購入する。そしてライオンやキリンをはじめ、猿や羊など様々な動物を飼い、その姿を次々にキャンバスに収めた。ローザとナタリーはナタリーが亡くなるまで50年間、カップルとして一緒に過ごしたのである。
ナタリー・ミカ(左)とローザ・ボヌール
ライオンと戯れるローザ・ボヌール
ナタリーが亡くなった後、ローザは2度目の熱愛を経験する。アメリカ人画家、アンナ・クンプルケとのもので、二人はローザが亡くなるまでの10年間を共に過ごした。二人の間には34年という歳の差があったが、お互いのことをソウル・メイトと確信したという言葉が残っている。
人々はローザの風変わりなところに気づいていたが、それが当時、トラブルやスキャンダルにならなかった理由は、彼女の一貫して堂々とした態度にあったのではないだろうか。
ローズは自由だった。性のあり方や表現に厳しい眼が向けられたこの時代に、「自分が何者であるか」に忠実で、自分を決して曲げなかったローズ。
生活に男性の影がないことを問われると、「男だって?私が唯一、興味があるのは私が描くオスの馬だけだ」「私は画家であり、私の私生活はお前たちの知ったことではない」ときっぱりとインタビュアーに言い放った。そこいらの男性は到底かなわない、痛快なスピリットを持った、天晴れな女性だ。
「私は画家であり、私の私生活はお前たちの知ったことではない」
Rosa Bonheur