昨年の2月の事、極寒のイースト・ビレッジから家路に着く際の話だ。
ニューヨークでは冷え込むと、プラット・フォームで地下鉄の到着を待つ間も、寒すぎて立っていられないことがある。この日もそうだった。仕方なくプラットフォームを行ったり来たり歩いていると、後ろから声を掛けられた。
「ヘイ。頼みがあるんだけれど、聞いてくれないか。俺の写真を撮って、この番号に送ってほしい、それだけなんだ」
大概の人は無視して立ち去ることだろう。夜更けの地下鉄のプラットフォームの話である。不要なトラブルは避ける、それがニューヨークを安全に渡る鉄則だ。私はなぜか、こうしたことを頼まれやすい。相手がヤバそうなら勿論速攻で逃げるが、マトモそうなら引き受けることも多い。
私は振り向いて向いて、黒いジャケットを着たその男を見た。その格好では寒いんじゃないだろうか。彼は済まなそうな、人懐っこい笑顔をみせた。若い頃のトム・ウェイツに似ている、と思った。年の頃は35、6歳だろうか、細身で背が高く、人が悪そうな感じはない。
「オッケー。どうすればいい?」
プラットフォームでポーズをとる彼の写真をiphoneで数枚撮る。
「グレイト!サンキュー!」
「ノープロブレム。どの番号に送ればいい?」
彼はポケットから折りたたんだ紙を大切に取り出し、番号を読み上げる。
こちらは言われた通りの番号に彼の写真をテキストする。
ニューヨークのような感情の浮き沈みも大きい街では、途方に暮れた時、見知らぬ人の優しさが何より心に染みることがある。この街に長く住むと、誰でもそういう優しさを経験する。見ず知らずの私になぜこんなことを頼むのか、そして誰に写真を送ったのか、私は聞かなかった。
「ブラザー、本当にありがとうな。元気でやってるって、どうしても伝えたかったんだ。感謝しても仕切れないぜ。家まで安全に帰ってくれ」
と私の手を固く握って、何度もありがとうを繰り返した。プラットフォームに到着した地下鉄に乗り込む私に、彼は笑顔で手を振った。
翌日、写真の送り先の番号から電話が入った。30代だろうか、低めの女性の声だった。
「もしもし。トム?」
「いや、違うよ。あなたは誰?」
「ごめんなさい。昨日、この番号から兄の写真が送られてきたの」
昨日の彼の妹からの連絡だった。
「君のお兄さんには地下鉄の駅で初めてあったんだけど。『写真を撮って、この番号に送ってくれ』って頼まれたんだよ」
「そうだったのね。以前連絡くれた時、兄は『今、ホームレスの収容所に泊まってるんだ』って言ってたわ。でもその後、連絡がなかったから心配してたの」
「お兄さん、元気そうだったよ」
「ホント??良かったわ。ニューヨークの冬は寒いと聞くし」
「本当だね。君たちの故郷はどこ?」
「〇〇の出身よ」
そして一瞬、口籠った後、彼女はこう言った。
「兄が元気でいてくれて、本当に嬉しい。兄の頼みを聞いてくれてありがとう。感謝しきれないわ。みんな心配してたの。あなたに神様の祝福がありますように」
そう言って、彼女は電話を切った。
短く、素敵な会話だった。